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SeabrookでのSafecastの活動

In 主要記事, 測定, 論説 by sean

今年の初めに、私たちは世界中で放射線を監視している一番古い市民グループの中の1つであるC-10の仲間の何人かと会えるという喜ばしいことがありました。1986年に設立され、ニューハンプシャー州のSeabrook Station (シーブルック・ステーション)原子力発電所に関連した健康や安全の問題について調べる活動をしており、小さなセンサーネットワークをこの活動にささげています。彼らは彼らの歴史を共有してくれて、私たちの努力について励ましてくれました。

私たちの多くの注意が日本、特に福島にある(当然そうなりますが)一方で、私たちはまだ問題が発生していない地域のこの種のデータが必要なことを理解してきました。私たちは今は福島から集められていますが、今年の事故の前のある時点でのこの種のデータがあれば、何がどのように起きたかについてより多くのことを知ることができるでしょう。この理由により、私たちは機会があれば他の地域についても測定をする活動を進めてきました。最近、Safecastのアドバイザーである Ray Ozzieが新しく開発したbGeigieとともにSeaBrookのそばに行き、発電所の周りを車で周回することを決め、私たちのデータベースに測定結果を追加しました。これが彼が測定した地点の地図です。

 Rayによる追記:

  車で周回した際に撮った写真をいくつかここに掲載します。この写真を撮ったときが肌寒い11月のある日であることを考えるとウィンドサーファーがフレームの中に飛び込んできたことに少し驚きました。またこの地域は、地元のロブスターや二枚貝の漁場としても有名です。

マップ [bing | google] を拡大してOcean Boulevard(オーシャンブールバード)の遊歩道にフォーカスをあててみると、夏大勢の人が遊んでいるビーチから発電所がどのぐらい近いかが
分かると思います。それゆえ、市民が常に信頼性できるオープンなデータを入手
できることが大切です。

過去にアクセスできなかったデータとともに、人々に環境についての情報を提供することはSafecastのミッションの一部であることを示すのにはいいタイミングです。私たちは皆いつも私たちの生活に重大な影響をもたらす可能性のあることに取り囲まれており、このことにより意識を持つことが事態をよくする唯一の方法です。…

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私の現状(福島県KSさんからの寄稿)

In ニュース by naozumi

曖昧な安全宣言からの不安
 311直後の原発爆発事故の家族全員のショックはかなり大きいものでした。
 震災の影響で電話のつながらない状態で、単身赴任中の父から突然電話があり、「子供と嫁を連れて直ぐに逃げろ!」と言われたとき、私は意味が分かりませんでした。国が安全だと言っているのに、なぜ逃げなければならないのだろうか?と思っていたからです。

 大人になってから、父に怒鳴られたことなどないのに、久々に激論をしながら「地図を見ろ!」と言われ見てみると、原発と自宅の直線距離が予想以上に近いことが分かりました。小さい頃に家族旅行で行った時は、あんなに遠く感じられたのに、今はすぐそこに原発があるではないか!と思いました。

 しかし、逃げるためには母や祖父母も一緒でなければ納得がいきませんでした。同じ家族なのですから当然です。現実的にはそれは無理で、祖父母はどちらも85歳を過ぎていたため介護が必要で、例え避難したとしても体調を崩してしまう恐れがあったため、母と一緒に残るしかないという悲しい決断しか残されていませんでした。そんな会話の中で、私は人生で初めて祖母の涙を目にしました。逃げたくても逃げれない現実を目の当たりにし、自分の無力さを改めて感じながら、家族全員で目に涙を浮かべて避難準備をしました。

 母は「私たちは十分生きてきたから、悔いは残らない。あんた達、若い人たちがこの先健康で長生きすることが励みになる。息子よ、嫁と子供は死んでも守りなさい!」と言って笑顔で見送ってくれました。車を発進させた直後に、バックミラー越しにあふれる涙を流しながら私たちを見送る母の姿が見えたときの悲しみは今でも忘れません。

 新しい町のアパートに到着後、車のトランクを開けると実家に救援物資で私が持っていった食料の他に、残り少ない実家の食料も積まれていました。母が積んでくれていたのでした。

 このような非現実的なことが、避難区域以外の場所でも起きていたことを少しでも多くの人々に知っていただきたいと思い、ブログに書く決心をしました。

健康の変化と周囲の人達の様子
 原発災害後、約3週間近くして家族に異変が起きました、低血圧で悩んでいた祖母が高血圧による脳梗塞で倒れ、家庭菜園の汚染された茎立ち菜を頑固に食べ続けた祖父が激しい下痢で急激に痩せてしまい、母はまるで声変わりしたようにガラガラ声になってしまったのです。私は専門家ではないため、被曝が直接的な原因なのかは分かりませんが、今まで病気になどならなかった家族が突然、体に変調が起こることが信じられませんでした。私自身も原発爆発から約1ヶ月間は体がだるく、ボーっとするような日々が続きました。

 引っ越ししてしばらくした後、ようやく体調も回復しいろいろ考えられるようになると、身の回りの放射線が気になるようになりました。

 やっとの思いで購入した放射線測定器で実家の放射線量を測定してみると、場所によっては毎時1.2~45.0マイクロシーベルトを超える場所が屋外で発見され、放射線が検知管に当たると同時に、スピーカーから出てくる音も絶え間ない連続音でした。このような状態にも関わらず、近所の生活風景はいつもと変わらない平和なものでした。

 余震は相変わらず続き、心配された食料も少しずつ回復するかたわら、おびただしい放射線が体に当たり続けていることは、普通の人には全く分からないというのが、現状でした。

 さらには、詳しい現状も分からずに個人的に安全宣言をしてしまう方々も続出し、私の父もその一人となりました。

 そんな中、避難してしまった自分に何ができるかを考えていた際、たまたまセーフキャスト(Safecast)の存在をテレビで放送しているのを見て自分も手伝いたいと考えました。

ライフスタイルの崩壊
 3月12日の原発爆発事故から私の家族の絆は強まった一方、ライフスタイルは完全に崩壊してしましました。

 私の家族は毎年、家庭菜園でいろいろな野菜を育て、収穫時期には全員で収穫祭を行い、とれた野菜でバーベキューや豚汁会など様々な年間行事を行ってきました。友人知人には毎年収穫した新鮮な野菜を宅急便で送り、感謝されることが父と私の喜びでした。しかし、今年は長年続けた家庭菜園を中止せざるを得ませんでした。なぜなら、Safecastからお借りしたカウンターを畑の土に近づけると、アナログテレビの砂嵐のように連続音が聞こえ、たくさんの放射性物質が降り注いでしまったことが分かったからです。父はこの音を耳にしたあと、畑に植えた野菜を無言でむしっていました。

 後に、なぜ今年は野菜を作らないのか?と父に尋ねると、個人野菜の測定はできないと断られたうえ、安全かどうか分からない野菜を作って孫や家族に食べさせることは耐えられないことだと、辛い胸の内を明かしてくれました。また、仮に作ってしまうと、愛着があるゆえにきっと人に譲ったり、自分でも食べてしまうかもしれないので、始めから作らない方が皆を大切にできる、最善の方法だとも話していました。

 度々実家へ帰り日々成長する子供の姿を見せに行く機会も減り、やっと歩き始めた我が子が実家の庭で走り回ることもできなくなりました。

 昨年から作り始めて、やっとの思いで父と作成させた、大きなウッドデッキと砂場が無残にも我が家のホットスポット(9600cpm)になってしまいました。私たち家族は自分の家にいながら、外の世界を全て失ってしまったのです。

悲しいSafecastの測定
 bガイギー(bGeigie:お弁当箱に入った放射線測定器)をSafecasstの方からお借りして簡単な説明を聞いた後、すぐに測定ができるようになりました。測定方法はとても簡単で、自分の車側面に測定器を取り付け、スイッチを入れてひたすら走るというもので、測定が終わったらメールでデータを送信します。

 初めのうちは、目新しい測定器が珍しく思えたため、周囲の状態があまり見えませんでしたが、だんだんと慣れてきた頃に普段と変わらぬ風景に違和感を覚えるようになりました。

 なぜなら、自前で購入した放射線測定器の警告アラームが車内でカリカリ、ピリピリと激しく鳴っているすぐ目の前で、子供たちは地面に座り釣りを楽しみ、小学生が鬼ごっこをしながら側溝の中をジャブジャブ走り、幼い子供が母と散歩を楽しんでいるのです。

 私にはその場所が危険であるかどうかは分かりませんでしたが、後からSafecastの測定マップを見ると赤や茶色の場所でした。(注:赤や茶色になるほど線量が高くなる。)私はその時、放射性物質がたくさん降ってきたことは、普通に暮らす一般人は知らない世界なのだと思わされ、とても悲しい気持ちになると同時に何も解決できない自分自身に憤りを感じました。

 決してかっこいいわけではありませんが、私たちの地道な測定アクションこそが今後の子供たちに対する明るい未来につながっていくのではないかといつも信じています。